昭和41年10月9日 夜の御理解
末永静行(№41-113-A-3)
舞台俳優達が、自分の芸というものをお客さんに見てもらう、その反響がその場で感じられる、もう、自分がここだと、自分がここんところを一生懸命やらんなん、ここんところを皆に見てもらわんならんと思うところでわめいたら、拍手がかかってくる、声がかかってくる、もうその時には、いわゆる、その役者のように尽きると言うときはそう言うときだと言うふうに言うておりますですね。
その点、例えば映画とかテレビと言うのは反響が無い、だから、舞台俳優がやりたがらないのはそう言うところに訳があるらしい、同じように私はここで皆さんにここでお取次ぎをさせてもらう、おかげをお取次ぎさせて頂くのだけれども、一番肝心要のは、やはり、神様のお心を皆さんにお取次ぎさせてもらうのです、いわゆる、その御理解によって皆さんに聞いてもらうのである。
ですから、もう一人でもいい、本当のここだと思うところを分かってもらえれる人がおるなら、もうそれで本当に( )、いわゆる、反響があるようなもの、これに過ぎた喜びはない。私はそんなにいつも思う、果たして今日の御理解をみんな頂いてから、どこを頂いただろうか、頂こうと言う意欲もない、本当に今日の御理解の頂き所はどこであっただろうかというふうな、その、ふうが見えない。
昨日もなんかでも、青年会があーして、軽くさせて頂いた。いつも都合で夜の御祈念が頂かれんから御理解を頂かない、椛目に来てから御理解を頂かなかったらもう椛目通いの値打ちはない、ね、それから、私はたんびに済んだら、早う菊栄会が済んだら今晩の御理解を頂けと、けれども、もうすぐ、自分に今日と言う御理解いうてから、聞いてくれという訳にはいけぬ、ね、そこに一人でも、あっ、今晩の御理解ばと、例えばせっかく椛目にあれだけのたくさんな人が参ってきとるのであるから、それに頂こうと言う意欲も願いもない、もう、何にも聞いたくもない、何のために椛目に来るだろうかと私は思う。
これは、もう、内々の者、朝晩に朝の皆さんが私の話を聞いておるから、いわば、飽き飽きしておるならそれまで、という事は、それだけ、皆さん、みんなの信心がです、もう、意欲がない印なんです。
今日、竹内先生達が親子五人でおいで見えた、そうやってからお茶を頂かせてもらう時に、今朝の御理解を頂き終えられて、本当にもう度々の事でございますけれども、本当に椛目の御理解のその深遠さ、その深さ、本当に、あの、私共は今まで教祖の御教えをただたんに浅く頂いておった、またそれを説き明かす者もいなかった、それを椛目の御理解を頂いておるとその深さ、深遠さに触れさせて頂く、というて今朝の御理解をそこでまたテープで聞かれてから、もう本当に、これだけ、もう今日の御理解には、まあ、みそはここですもんね私がいいところを、竹内先生がいわれる。
皆さんは今日も朝から私が気付かせて頂いたこと、菊栄会の方達にも聞いてもらったごたる、いろいろ、あらゆる角度から様々な表現をもって説いとるけれども、どこを皆さんが感じなさっただろうか。
もう、本当に、それこそ、大元からここぞと思うところに声がかかってきたような私は有り難い、自分に身近なものが、私の御理解じゃない、私の御用と言うのは神様の心を皆さんに伝えると言うこと、それを御理解によって伝えるという事、それを大事にしようともしない、居眠り半分で頂いて、どこに身についておるのやらおらんのやら、分からんような感じ、反響がない、ね、もうこんなに寂しい思いをする事はない。
今朝の御理解の中から豊な心とか、大きな心と言うのは自分を中心にするか、神様を中心にするかという事で決まるんだと、大きな心と言うのは神様の心を心として、神様を中心にした頂き方考え方、それから、いやがおの上にも心が豊に大きくならなければならないと言うような事を私は説いたんですけどね、それが分かった人が果たしてたくさんの今日は、私も午前中に二百何十名ですか、お取次をさせてもらっとるんだけれども、何人分かったでしょうかと私は思う。それを竹内先生がいっちょそこんところを、こんところに本当に大きな心とか豊な心といわれるけれども、ね、本当に、例えばなるほど、神様中心にした考え方になれば心が大きく豊になられんはずがない。
久留米の初代の石橋先生が、ね、神様からの、本当に大空のような豊な心の先生だと言われておられたが、本当に、もう一切が神様の御物としてですね、神様を中心にしたご生活が出来ておられたから、あの大空のようなご信心が出来られたんだという事になる訳ですけれどもです、例えば、今朝、今日一日中私はかかって繰り返し説かせてもろうた、ただそこんところだけ、豊な心になろう、豊な心にならせて頂こう、大きな心にならせてもらおうという事は以下に自分が神様を中心にした、自分中心じゃない、神様を中心にした生活、生き方というものが、以下にそれが神様中心の信心が出来るかという事を分からせてもらえれば自ずと豊な大きな心が頂けれるという事になるです。
繰り返して申しましたけれど、まあ、私は御理解を頂かせて頂いて、一番私が本当に取次者としての実りを感じる、それは、おかげをお取次ぎさせてもらって、おかげを頂いて有り難いという事も有り難い、けれどもです、神様の心をお伝えして、神様の心を皆さんが分かってくださって、はぁー先生そうでした、そうでしたと、私が求めにもとめとったのはそれでしたと言うように、その御理解の中から、そうやって、もう、いわば、大義というものをです、つかんで下さるという事がです、これはもう私のもう、本当に一番喜びとするところ、という事はそのまま神様も喜んでくださる事に違いはありません。
どうぞ。